会長のこと、3/11のこと

2019/03/11

みなさま、こんにちは。

気づけば半年近くブログを更新しておりませんでした。

季節が過ぎる早さに驚くばかりです…と季節のせいにしてみます^^;。

 

 

あられ屋はこの間、会長の石田孝一が92歳で他界しました。

孝一は私から見て、主人である石田亮平の祖父です。

 

雑穀商などの仕事をしながら、あられ屋の創業を思い立ち、息子(石田定克、現社長。亮平の父です)をあられ屋に修行に行かせました。

仕事で上京した際、銀座のデパートであられが飛ぶように売れているのを見かけ、「うちのもち米でもできるんじゃないか」と考えたのが始まりだそうです。

素直にあられ屋に修行に出た父も偉いなあと思いますが、祖父の着眼点もすごいですよね。

いまでいう6次産業化を、何十年も前に思いついたわけですから。

それを家族で実現し、いまにつなげてきたことが感慨深く、感謝の気持ちが沸いてきます。

祖父はあられ屋の仕事に誇りを持ち、90歳をすぎても「何か手伝えることはあるか」と言っては仕事を手伝ってくれました。

いまは空の上からあられ屋と石田家を見守ってくれていることでしょう。

 

 

そして気づくと、今年も3月11日を迎えました。

あの震災から8年。

あられ屋のある場所は、海沿いにある亘理町の中でも山側に近く、津波の被害は免れました。

わたしはまだ嫁いでいなかったので、当時の亘理やあられ屋の状況は話で聞くだけです。

情報がなく、津波が来たことを夜遅くに知ったこと。

ゆべしを近くの避難所に配って歩いたこと。

食料を買える店がずっと閉まったままで、お客様から「米を譲ってほしい」と頼まれたこと。

宮城県内の経済がまひし、販売先が途絶える中、主人が夜行バスに乗って首都圏に売りに出かけたこと…。

聞いただけの話ですが、それでもやはりみんな大変だったことがよく伝わってきます。

 

おかげさまで亘理町は、全国のみなさんのご支援のおかげで、ずいぶん元気になってきました。

津波の被害に遭った沿岸部は公園や観光施設が新たに整備され、にぎわいが戻りつつあります。

今年の夏には念願の海水浴場も再整備される予定です。

住宅を再建された方も多く、ぱっと見た感じでは被災地だったことを忘れてしまうほどです。

 

ですが、仮設住宅から立派な災害公営住宅に移った後、周囲との交流が減って「寂しい」と話すお年寄りもいます。

見た目だけでは分からない傷跡がたくさん残っているのだなと気づかされます。

 

被災地で活動する団体も少なくなりましたが、8年間、変わらずに活動しているところもあり、頭が下がります。

あられ屋も、毎年この時期になると注文をくださったり、来店してくださるお客様がいたり。

忘れずにいていただけることがありがたく、感謝の気持ちでいっぱいになります。

その分、自分たちにできることは何だろうと、いつも考えさせられます。

 

まずは美味しいあられを作り、届けること。

あられづくりを続けさせてもらっている亘理の自然に感謝し、環境を守っていくこと。

地域の人たちにも喜んでいただける仕事をすること…。

できることから、地道に取り組んでいきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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