みなさん、こんにちは。
今年もきょうがやってきました。
3月11日。
毎年訪れるこの日。
それも、10年間が経った「この日」。
もう10年?という思いと、10年経ったよなあ…という思いが交差します。
ここからはあられにまったく関係ない、私事で失礼します。
私は10年前の3月11日、仙台市の中心部にいました。
まだ独り身で、仙台に住み、仙台で仕事をしていました。
揺れが起きた瞬間。その後、「沿岸部で津波が発生している」という情報が入ったときのこと。
家族や友人の安否が心配だったこと…。
まざまざと思い出されます。
可愛がってもらった大叔母は津波の被害で亡くなりました。
震災後の混乱で葬儀にも出なかったせいか、いまでもどこかで生きているような錯覚に陥ります。
正直に言うと、そう思う方が、楽でした。
おばちゃん、ごめんね…。
出身地のいわき、福島県は、地震や津波に加え、原発事故の被害で大変な事態になっていました。
放射能汚染がどこまで広がるか、深刻か分からず、実家の両親に避難するよう電話で説得を続けました。
家族が公務員だったこともあり、両親は結局、避難せずにいわきにとどまっていましたが…。
その後の事故の影響の大きさはみなさんご存じのとおりです。
いま、この文章を書いているうちに、あの時感じた東電での怒りと自分への無力感が再び沸き起こってきました。
友人の中には、原発事故後に他県に避難→ご主人の祖国のイギリスに避難し、そのまま長年滞在している方がいます。
その方は東電に対して個人で訴訟を起こしていて、「正しく怒る」ことを長年続けています。
辛いことばかりではありませんでした。
確か震災から10数日後のことだったと思います。
食糧もエネルギーも足りず、心細かったところ、ガソリンを積んだタンカーが入港する様子を間近に見ました。
船体には「がんばろう!東北」という横断幕が掲げられていました。
全国から応援が来てくれているんだ!孤立無援ではないんだ!と思い、涙が出ました。
ほんの少しのことでも、人と人がつながっていること、助け合いの気持ちが生きていることを感じる機会が増えました。
家族や友人のありがたみも、震災を経て強く感じるようになりました。
震災から10年が経ちました。
わたしは家族ができました。仙台から亘理に住まいを移し、あられの仕事を手伝うようになりました。
子どもが生まれ、家族が増えました。
家族との歩みや自分のいる場所を考えると、やはり10年経ったのだなと思います。
子どもがいることで毎日精一杯で、あまり深く考えることも、不安や、自分の無力感に捕らわれることもなかったのかもしれません。
この一か月ほど、10年の節目ということで、振り返るきっかけをたくさんいただきました。
しばらく遠ざかっていた・蓋をしていた当時の記憶や思いと、もう一度向き合いなさいということかなと感じています。
とりとめのないことを書き連ねてしまいました。
お読みくださったみなさん、ありがとうございます。
これから、自分にできることを考え、何か一つでもできることがあればと思っています。
これからもどうぞ宜しくお願い致します。
みやぎのあられ
石田美智代